70年代の邦楽史についてさらっと解説

その他のレビュー

HIROSEのミュージックバーへようこそ。こちらのブログでは、音楽を中心としたさまざまな情報を気まぐれに発信しています。

今回は、大好きな70年代の邦楽史について、簡潔に流れを語っていこうと思います。海外の音楽シーンを経て、本当の意味で邦楽史が始まったのがまさしく70年代でした。こちらのブログでは、初学者にやさしく、わかりやすい解説を目指しています。ぜひ、こちらの記事が気に入っていただけましたら、他の記事もご愛読いただけたら幸いに思います。それでは本編へどうぞ(╹◡╹)

【アメリカ・イギリスの音楽シーンからの影響】

まずは、アメリカやイギリスの音楽シーンを軽くさらっていき、日本音楽界に与えた影響について話していこうと思います。

60年代、”ロック”は大成し、多様化していきました。その中で、「ビートルズ」の活躍が大きなものであったことは、周知の事実ですよね。60年代の後期には、サイケデリック・ロックが流行し、クリームやジミヘン、ビートルズらによってハードロックが始まりました。と同時に、ビーチ・ボーイズやドアーズ、ビートルズらによってアルバム単位での芸術表現という新たな概念が出現し、この概念は後に、プロコル・ハルムやムーディー・ブルース、そしてキング・クリムゾンによってプログレッシブ・ロックの成立へと繋がっていきました。

次に、「ボブ・ディラン」の活躍がありました。彼は”フォーク”を世の中に広め、シンガーソングライターとして大きな影響を与えました。「歌詞」の表現の重要性がメインストリームに舞い込み、オーバーグラウンドにてフォークが市民権を獲得するのに大きく貢献しました。

最後に、少し洒落た音楽の要素も、同時期に誕生します。「ビーチ・ボーイズ」(のブライアン・ウィルソン)は、サーフロックとして、そしてサイケデリックロックの功労者として寄与し、編曲家(アレンジャー、プロデューサー)としての影響を多分に与えました。
また、「フィル・スペクター」もプロデューサーとしての影響を与え、彼のサウンドプロダクションは後のポップスの基盤となっていきます。
彼らに加え、「モータウン」を中心としたブラックミュージックも、リズム音楽としての要素を音楽界全体に波及させ、R&B的なオシャレなアレンジがロックやポップスの大事な構成要素の一つとなっていきます。
これら全ては、AORの成立や、ポップスの進化に繋がりますね。日本ではこれらの流れを”ニューミュージック”と呼んだりもします。

以上をまとめると、このようになります。

ビートルズロック

ボブ・ディランフォーク

③ ビーチ・ボーイズやフィル・スペクター、モータウンなどニューミュージック

大きくまとめてこれら3軸の影響が、邦楽史の柱となって進化していきます。「ロック」「フォーク」「ニューミュージック(シティポップなど)」は、互いに影響し合いながら、歌謡秩序の枠組みを拡大していくのです

【フォークを中心に始まる邦楽の歴史】

Apple Musicの「1970年代 邦楽 ベスト」
プレイリスト・106曲

60年代の日本は、演歌が主流でした。そんな中、後期にはGS(グループ・サウンズ)が流行し、バンド文化が流入します。次第に、海外のロックシーンに影響を受けた志士たちに、「ロック」に対する意識が芽生えました(エイプリル・フールやアリスが結成されたのも70年前後)。

70年代はまず、60年代の流れを汲み、フォークが成立します。ちなみに、フォークブームを生み出したのはザ・フォーク・クルセダーズ。1967年にリリースされた「帰って来たヨッパライ」は、日本史上初のミリオンヒットを獲得しました。
高田渡岡林信康加川良など、アンダーグラウンドのジャンルであったフォークの世界に、吉田拓郎が登場しました。吉田拓郎はフォークをオーバーグラウンドに押し上げ、シンガーソングライターブームの草創期に活躍しました。彼らは皆、ボブ・ディランの影響を大いに受けてデビューしました。

Apple Musicの「はじめての 吉田拓郎」
プレイリスト・25曲

60年代後期の海外シーンにて、「アシッドフォーク」というジャンルがありました。いわば、サイケデリックフォークのことですね。ボブ・ディランがフォークとロックを接続し、それにサイケデリアが流入すると、ウェストコーストを中心にさまざまなフォークロックバンドが出現します。それがバッフォロー・スプリングフィールドやモビー・グレープなどでした。そんな彼らに影響を受け、フォークロックを「「日本語で」」始めたバンドこそが、「はっぴいえんど」です「はっぴいえんど中心史観」という言葉があるほど、彼らの登場は邦楽史においてエポックメイキングな出来事でした

(左から、大滝詠一(Vo)・細野晴臣(Ba)・鈴木茂(Gt)・松本隆(Dr))

日本語でロックをやる、ということに懐疑的な層も中にはいたんですよね。ロックは日本語では成立しないと唱えるバンドには、フラワー・トラベリン・バンド(内田裕也)やザ・モップスなどがいました。これら一連の流れは「日本語ロック論争」と言われ、邦楽史において最重要論争の一つとなっています。ちなみに、フラワー・トラベリン・バンドはサイケをやっていましたね。他にも、ハードロックやプログレをやるバンドも存在し、ロックの多様化は日本にも起こっていました(サディスティック・ミカ・バンド村八分、頭脳警察四人囃子など)。

はっぴいえんどが邦楽を代表する大名盤、『風街ろまん』を発表して2年後、『HAPPY END』のリリースをもって解散してしまいます。そんな中、メンバー(Ba)の細野晴臣がリリースしたソロアルバムが、『HOSONO HOUSE』でした。本アルバムにて後続のバンドである「ティン・パン・アレー」(当時の名義は「キャラメル・ママ」)のレコーディンググループとしての性格を確定させた後、SSW、いわゆるシンガーソングライターの時代が始まるのです
荒井由実のデビューでした(ティン・パン・アレーは始めに荒井由実のレコーディンググループとして活躍しました)。

細野晴臣の「HOSONO HOUSE」をApple Musicで
アルバム・1973年・11曲

吉田拓郎の流れを汲んだシンガーソングライターのブームは、荒井由実をはじめとして、中島みゆき井上陽水などフォークシーンから派生し広く起こりました。ちなみに海外でも、同時期的にジョニ・ミッチェルやジェイムス・テイラー、キャロル・キングなどSSWブームが起こっていましたね。

さて、ここまで来て、荒井由実の全盛期が75年前後に訪れます(「ルージュの伝言」や「卒業写真」など)。この1975年が邦楽史の転換期でした。1975年に「シュガー・ベイブ」が『SONGS』をリリース。これが、いわゆる”シティ・ポップ”の始まりでした。

シティポップは、シュガー・ベイブのメンバーであった山下達郎、はっぴいえんどのメンバーであった大滝詠一細野晴臣によって、75~80年のうちに大成します。また、はっぴいえんどのギタリストであった鈴木茂や、シュガー・ベイブの大貫妙子、彼らの関連メンバーである吉田美奈子など、瞬く間にシティポップのムーブメントは拡大していきます。シティポップなど、洗練されたサウンドを志し、当時にしては先進的なポップスを中心として目指された音楽を、総称して”ニューミュージック”と呼んだりしていましたね。

鈴木茂の「BAND WAGON (リマスター2017)」をApple Musicで
アルバム・1975年・9曲
大貫妙子の「SUNSHOWER」をApple Musicで
アルバム・1977年・10曲

シティポップ(ニューミュージック)において、山下達郎や大滝詠一が筆頭に挙げられることが多いですよね。というのも、サウンドプロダクションへの意識が非常に高く、和製「ウォール・オブ・サウンド」、つまりはフィル・スペクターの音像の再現に強くこだわっていました。彼らは同時に、ビーチ・ボーイズの影響を濃く受けています。ビーチ・ボーイズの楽曲は、シティポップとの相性が非常に良く、「海」や「夏」が多くテーマとされたのにも共通点がうかがえますよね。

当ブログでは、シティポップの定義付けを、
①はっぴいえんどorシュガー・ベイブorティン・パン・アレーのメンバー、もしくはそれらに関わる方々が関与した、②1975~80年代後半の楽曲で、③夏(海)もしくは夜(都会)がテーマになっているもの
としています。あくまで原則的な定義ですが、これらの流れを一見すると、非常に理にかなっているものだと思います。

ここまで見てきて、歌謡曲の可能性が非常に広くなっているのを感じられると思います。70年代をもって、歌謡は大成したのです。
筒美京平は、歌謡シーンにて最重要の音楽家でした。「木綿のハンカチーフ」(太田祐美)や「セクシャル・バイオレット No.1」(桑名正博)、「さらば恋人」(堺正章)や「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)など、70年代だけを見ても、非常に多くのヒットナンバーを手掛けました。

Apple Musicの「筒美京平:ソングライター」
プレイリスト・25曲

加えて、ヒットナンバーの多くの歌詞を手掛けたのは、元はっぴいえんど(Dr)の松本隆でした。彼が活躍するのは特に80年代の歌謡シーンなので今回は割愛しますが、少なくともはっぴいえんどにて、日本語ロック論争に終止符を打った功労者であることは、現代の邦楽史観を見るに非常に大きな貢献であったことは間違いないですね。

Apple Musicの「松本隆:ソングライター」
プレイリスト・50曲

最後に、「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)が70年代の末期に結成されたことに触れていきたいと思います。
細野晴臣がはっぴいえんど解散後、ソロ活動に熱を入れる中、いわゆる”トロピカル3部作”をリリースします(『トロピカル・ダンディー』『泰安洋行』『はらいそ』)。これらのアルバムは、”エキゾチカ”というコンセプトをもって作られたものですが、このエキゾチカとは、西洋から見た東洋のイメージを音楽として再現するという音楽ジャンルで、マーティン・デニーによって成立されたものでした。細野晴臣はこの世界観に強い興味を持っており、トロピカル3部作のリリース後、シンセサイザーを使った音楽を志す中、YMOの結成に踏み切るのでした。イエロー・マジック・オーケストラの「イエロー」も、東洋人である我々日本人(黄色人種)を表すものです。

細野晴臣の「トロピカル・ダンディー」をApple Musicで
アルバム・1975年・10曲

YMOのメンバーは、細野晴臣と、当時シティポップを中心にセッションミュージシャン、プロデューサーとしての頭角を表していた坂本龍一、サディスティック・ミカ・バンドのドラマーである高橋幸宏の3人でした。コンピュータを駆使した先進的な音楽は、80年代以降のテクノ歌謡を中心に、一大ブームを引き起こすとともに、後のJ-POPの成立に大きな影響を与えていくことになります。70年代は、細野晴臣に始まり、細野晴臣で終わる、そんな時代だったんですよね。

YELLOW MAGIC ORCHESTRAの「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー(2018 Bob Ludwig Remastering)」をApple Musicで
アルバム・2018年・8曲

以上、70年代の邦楽史についてさらっと解説していこう!の記事でした。とても面白いものが書けたと思います。
本日もご愛読ありがとうございました!それではまた(╹◡╹)

コメント